イラストレーターの久保沙絵子が、毎月1冊をピックアップして、勝手にその本の表紙を制作する企画。イラストが描き上がるまでを追いかけます。7冊目は、井伏鱒二の代表作『黒い雨』。広島への原爆投下後の被爆者の生活を描いた戦争小説で、日記形式で進み、被爆の実態とその後の差別や苦悩を静かに訴える……。戦争の悲惨さと人間の尊厳を深く問いかける重厚な作品。

久保沙絵子/イラストレーター。風景画をはじめ、超絶細密なタッチが特徴。雑誌やウエブなどで活躍中。
8月は原爆が落ちた月です。あれから今年で80年。
過去が遠くなればなるほど原爆投下の現実味は色あせて、ただの歴史の一部に過ぎなくなってしまうようで、とても不安な気持ちになります。
学生の頃、歴史の授業ではたくさんの出来事とその年号をテストのための知識として一時的に頭に入れていましたが、その中でも原爆に関しては、テスト前に語呂合わせで覚えるような出来事でなく、私たちがいる未来に、もっと悲惨な形で起こり得る可能性があるからこそ、きちんと知って、自分の価値観の素にしなければいけない気がしていました。
知ることは怖いけれど、知らないことはもっと怖いです。
黒い雨は、”知っている人”になるためにぜひ読んでおきたい1冊です。
著/井伏鱒二
新潮社(新潮文庫)
姪の矢須子の原爆病を何としても治したい、少しでも希望を見つけたい思いで、主人公は自身の痔のかかりつけ医に相談します。「痔の医者なのに原爆病のことはわからないよ……」と、言いつつも、その医師は、参考になればと自身の原爆投下後の手記を主人公に渡してくれます。
その中に、酷い原爆病に全身をむしばまれながらも猛烈な精神力で生き抜いた岩竹という人物がいました。
主人公の被爆日記と同様、あまりにも悲惨で、あまりにも過酷な様子が書かれています。
そんな中でも岩竹は奇跡的に生還しました。
そこに主人公はかすかな希望を見出したのでした。
しかし、矢須子の病状は悪くなるばかり。
気がかりになりながらも、主人公は被爆日記の最後の日、8月15日の日記を書き進め、ついに被爆日記を完成させました。
修学旅行の平和学習で原爆ドームの平和資料館に行った時、同級生のやんちゃな男の子は、つまらなそうに歩きながら被爆資料が入った展示ケースをポーンポーンと軽く叩きながら展示室を進みました。
その男の子の心には何も届いていないんだ!と思ってびっくりしました。
その時の私は、みんなが私と同じように心を痛めて欲しい、そうあるべきだと思っていた気がします。
でも、大人になって今思うことは、うれしくて笑ったり、腹が立ったらムッとしたり、おいしくていい顔になったり、例えば何も感じなかったとしても、その人が感じたままに振る舞えることも平和の一つだということです。
そして、知るということは、教えてもらい、捉え方を導いてもらうことではなく、一つの事柄を自分の手の上に乗せてその手触りを確かめることだと思います。そのことを知った時、自分はどういう風に感じるのかを確かめることが知るということだと思います。
黒い雨の小説の最後に、虹が出てきます。
最後の3行を、何度も何度もなぞって読みました。
部屋の中の時計の音も、外の車の音も何にも聞こえなくなってしまうような、そんな文章です。
電車内で、たくさんの人のことをぼんやりと眺めていると、”みんな私で私がみんな”だという感覚を持つことがあります。
私はいつも正しいわけでなく、いつも間違っているわけでもなく、いつも優しいわけでなく、いつもいじわるなわけでなく。
そういう、その時々のいろんな私が性別年齢容姿全く別の私になって世界に散らばっている感覚です。
不思議な感覚で、うまく言葉にできませんが、その感覚を元に人間全体を一つの生命体とすれば、一人ひとり生まれて死んでを繰り返し、100年も経てば、もうほとんど人間は新しい生命体になってしまいます。
記憶や感じ方、世の中の状況が変化していく中で過去の悲劇を残して教訓にすることがどれほど難しいことか。
伝言ゲームという遊びの面白さにその不安を重ねてしまいますが、どんな考えでも、一人ひとりが自分の言葉でそのことについてしっかりと意見を話せるようになっておくことが、まずは大切なことだと感じました。
高校生のとき、社会の先生が伝えてくれた話を覚えています。
「戦争をすれば景気が良くなる。上の人間は得をする。だから上の人間は戦争がしたいんや。
戦争に行くのは誰や、若いあんたらや。」
“核保有は安上がり”と失言した政治家のことを思います。
その人は、いったいその手の上に何を乗せて、どんな手触りを自分の中に集めてきたのか。
私は、本をたった1冊読んだだけ。
平和の作り方も戦争の終わらせ方も、何をどうするべきなのかも分かりません。
ですが、戦争や核兵器への怒りの根はさらに深くなりました。
たくさんの人の心に同じ気持ちの根が張られることを望みます。
そして今この時が、過去の戦争と未来の戦争の束の間にならないことを心から願います。

久保沙絵子
大阪在住、雑誌やウエブなどで活躍中のイラストレーター。風景画をはじめ、超絶細密なタッチの作風が特徴。線の質感にこだわり、作品はすべて一発書き! 制作は、生命保険の粗品のスヌーピーのコップで白湯を飲みながら。また、街中でスケッチすることも。もし、見かけたらぜひ声をかけてください。
- Instagram@saeco2525
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