今年、デビュー40年を迎えたマンガ家・ひうらさとるさん。それを記念して兵庫県・城崎にある[城崎文芸館]で「ひうらさとる 漫画家生活40周年記念原画展 漫画と温泉」が開催中です。今年も『西園寺さんは家事をしない』がドラマ化されるなど、今も現役最前線の作家として活動する軌跡と奇跡について迫ります。
まずは、高校在学中にデビューしたきっかけから教えてください。
その頃(1980年代)は流行ってたんですよ、高校生でデビューするのが。読者になるべく近い年の方が共感性が高いとか。特に少女漫画は感性の世界なので、みんなのお姉さんだよみたいな感じで中3ぐらいでデビューされてる先生も多かったから、高校生デビューはそんなに珍しくなかったです。だから、私は18歳でデビューなんですけど、そんなに早くない。高3までにデビューしなきゃヤバイって思ってました。今は、何歳でデビューしたか気にする人はほとんどいないと思いますけどね。
それにしても、ずいぶん早くに人生の方向性を決めてますね。
なんとなく憧れとかぼんやりと好きな感覚があって、小さな頃から漫画描いてたんですけど、漫画家として仕事としてやろうと思ったのは高2ぐらい。大阪の美術系の高校に通っていたから似たような趣味の子がいっぱいいて、楽しかった。でも、普通の大学に行こうと思ったら予備校に行って勉強しなきゃいけない。美術系の大学だったら推薦で行けたんですけど、課題がすっごい大変って聞いて。それで4年間はやだなぁ、と思って(笑)。
じゃあ就職する?、と考えた時に、当時バイトをいっぱいしてたんです。マクドナルドからカフェバー、豆腐工場とか。で、人に使われるのやだなぁ、と思って(笑)。
それで、自分に合ってる仕事がたぶん漫画家だと。高2になってすぐ、絶対1年間でデビューすると決めて、まずターゲットを決めました。どの漫画雑誌が自分に合っててデビューしやすいのかをすごく考えて分析して。『なかよし』が一番いいなと。その頃、たくさんの作家さんが高校生デビューしてたんですけど、1作だけで消えるとか普通で。そういう雑誌は就職先として厳しい。いろいろな雑誌を見比べて分析して、『なかよし』は、デビューから本誌連載までいくルートがあったんですよ。これは行ける! と。『りぼん』には、私と似たようなサブカルが好きで、音楽が好きでみたいな漫画家がいっぱいいたんで、そういう人がいないところ探したら、やっぱり『なかよし』だった。
そこから投稿を始められるんですね。原画展では、その投稿作品と編集者からのコメントも見られて、面白かったです。
高2の終わりくらいに、参考作品として掲載させてもらうことになって、そこから担当さんがしっかり付いて。高3の始めにデビューが決まった感じです。だから高3の時は、結構な数の読み切りを学校に行きながら描いてました。アシスタントとかいないんで、その頃は一人でびっくりするくらいいっぱい描いてますしたね。若かったから、できたんじゃないでしょうか。『美少女戦士セーラームーン』の武内直子さんとは、ほぼ同期ですね。東京に出てからは、よく一緒に遊んでました。
原画展には、漫画家の活動年表がありますが、それを見ると、ほぼ途切れなく連載が続いてます。デビューしてからは順風満帆に進まれたのでしょうか?
順風満帆というか……。サブカルにどっぶりだったんで、連載が始まるまでは、単発で好きなものばかり描いてたんですよ。高校生が主人公とか、男の子が主人公とか描いてた。そんな時に連載の話が来て。担当さんに「連載はすごいことだから、絶対に付録になるような話にしろ」って言われて。また『なかよし』を研究しました。それでキャラの目を大きくして、恋人が恋のキューピッドになるみたいな話を作ったんです。
3回の連載予定だったんですけど、担当さんが「1回目、アンケートがすごい良かった!」と。で、「えー、1位ですか?」って驚いたら、「ばか。お前今までずっと最下位だったんだぞ」って言われて(笑)。だから担当編集者さんが、ごり押しして連載するように持っていってくれたんだと思うんですよ。
すごく目をかけてくれた担当さんで、可愛がってくれてました。「ばか、ばか」言われましたけど。その担当さんが、今年亡くなったんです。当時、私が18歳で、彼が30前半くらいかな。若いんですけど、高校生の私からしたら完全におじさん。おじさんというか学校の先生みたいなイメージで、軽口ばっかり叩いてましたけど。そこが転機というか、読者のために描くことを意識しだした頃ですね。
『なかよし』で、いくつかヒットを出されて、そこから『なかよし』の専属作家ではなくフリーになられます。
フリーになろうとなんとなく決めたけど、なんにも考えてなくて。どうすんの? ってみんなに言われてました。そんな時にアシスタントの子が心配してくれて。彼女は、くらもちふさこ先生のアシスタントを掛け持ちでやってた子だったから、くらもち先生を紹介してくれ、その縁で『ヤングユー』で描くことになったんです。『ヤングユー』に掲載予告が載ったら、講談社の人が「ひうらさん、そこに描くんだったら、こっちにも描いてよ」って『Kiss』の連載が決まりました。そしたら『mimi』っていう雑誌の編集者さんからも電話がかかってきて、こっちにも描くようになって。さらにもともとの担当さんが『別冊フレンド』にいたんで、「いや、そんな大人の雑誌に急に行くんだったら、間の世代のここに描けって」言われて。
すごくラッキーだったのは、小学生対象の雑誌から始めて、高校生、社会人と掲載誌がステップアップして、読者がずっとついてきてくれるんですよね。10歳の頃『なかよし』でなんとなく見てたマンガが、高校生なっても「この漫画家、知ってる」みたいな感じでしたね。
年表を見ると30代の頃に、いくつも連載を抱えてますね。
自分の限界を知ってみたい、と思ったんです。漫画家さんには、天才型の「すげー!!」っていう人がいるじゃないですか。でも私は、全然普通なので。すごく仕事をいっぱいいっぱいになるとまでやったら「うわーっ」てなって天才的な何かが出てくるんじゃないかなと思ったんです。やってみたら、ただ忙しいだけ。追い詰められたら「バーン」て何かが広がるかと思ったんですけど、ひたすら忙しくて絵が荒れただけだった(笑)。
それだけ忙しくなるとアイデアが枯渇したりしないものなんです?
何もアイデアが出てこないのは、あんまりないんです。出てくるけどつまんないとか、展開に合ってないとかはあるんですけど、何も出てこないことはあまりなかったですね。月間とか隔週とかで連載が重なってますけど、メインの連載があって時々別のシリーズを描くみたいな感じでした。それでも月算100何枚ぐらいは、描いてましたね。例えば『ジャンプ』とか週刊ものが1回14ページから20ページくらいで、月に100〜160枚くらい。それ以上は超えてました。
連載が重なってるから、アシスタントが来るスケジュールが決まっていて、「アシスタントが来るまであと2日しかないから、そこまでにネームを考えないと」という感じでした。ネームができてないのにアシスタントが来ちゃうと余計焦るから、アシスタントが来る段階では絶対ネームできてるようににしたかったし、するようにしてました。速かったですね、描くのは。
そんな描き続けた漫画家生活40年の中で、ターニングポイントはありました?
自分の中では『なかよし』専属期、フリーランス期。東京から城崎への移住期。大きく分けたら3つですね。初期と、めっちゃ働いてた東京の時と、結婚して子どもが生まれてからはペースがゆったりしました。デジタルになってリモートでもできるようになったのも大きいですね。
ドンと売れたのは『ホタルノヒカリ』ですね。その直前に量産してて、「絵も話も荒れてきたらやばいな」と思って、ちょっと仕事を絞ったんですよ。迷走してる頃だったんですよね、この頃は。これはだめだったから、こうやったらどうか、とか試行錯誤してたんですけど。
そんな時に『ホタル』の連載の話が来て。『ホタル』の主人公と同じ年の27歳の編集さんとか、その年ぐらいの子たちが恋愛にそれほど重きを置いてないって気付いたんです。口では「彼氏が欲しいな」とか言ってるけど、「じゃあ合コンしようか?」って聞いたら「いやいや別にそこまでは」みたいな感じで。そんな子たちが面白いなと思ったので、服をまとめて脱いじゃうとか、ブーツのまま部屋に上がっちゃうような『ホタル』の主人公の干物女っていうキャラクターを作ったんです。そうしたら女性読者から「わかるわかるー」と連載初回から反応が良かった。だけど男性からは、すごい賛否両論だったんですよ。雑誌に取り上げられても、「恐怖の干物女」とか言われたりとか。でも賛否両論なら面白くなるな、と思ったんですよね。
自分らしいものが描けたというか、描きやすいなと思ってたので、やっとあんまり人目を気にせずのめり込んで描いたものが世間に認められたので、自分を肯定された感じがすごいしましたね。
私的には迷走してきたことが全部形になってまとまった思ったので、これから迷走してもいつかこういう風になんとかなるんじゃないかなと思えるようになったことが一番良かった経験ですね。
迷走されてたんですね。
そうですね。30歳手前くらいまでは好き勝手に伸び伸び描いてたんですよ。だけど30歳を過ぎてくると後輩も出てくるし。その後輩が良いもの描いてるのに、私が巻頭カラーだったら後輩以上のものを描かなきゃいけないとか、そういうのを気にしだしたり。周りの友達がヒット飛ばしたら、なんか肩身が狭いなと思ったり。「ヒットしなきゃやばい」って考えたらなんか余計堅くなったりとか。でも、30代はもがく時期じゃないですか。仕事に迷走するというか。結婚もしなきゃいけないとか。そういう感じで駆け抜けてましたね。
そんな状況でも、連載が途切れずに続けてこられたのは、すごいことだと思います。連載が途切れないコツがあるのでしょうか?
営業してますかね。編集部に行って「お願いします」とかではないですけど。今やってる連載が、大体終わりそうだな、と分かるじゃないですか。なんかもうやばいな、っていうのが分かったりするんで。まだ世間が気づいてない段階でも、この連載はは人気がなくなってきたなって自分が一番よく分かるんです。そんな時に、例えばこうやって編集さんい会ったら「『SAVVY』でなんかないですか? こういう漫画、描きますけど?」と、さらっと言う。この連載やばいぞ、って察知する能力が他の人より長けてるんやと思うんですよ。私と編集さんぐらいしかやばさが分からない段階で、次の行動を起こしていて。俯瞰して見てるんですよね、自分のことも、自分の状況も。自分の才能がそんなにないと思ってるので、高校生の頃から戦略を立ててやってる感じです。
絵柄や作風も時代に合わせて変えて、戦略的に変えられてるんでしょうか?
ありますあります、今でも必死です。若い絵師さんの絵柄とか見て参考にしてます。娘が今15歳で、そういうのが好きなんで、「何が好きなん?」と偵察して。いままでは手癖で描いてたことも多いんで、自分を老害と認めることが重要だなと思って。だから、絵柄も作風も変わってますね。でも反対に、例え若い人のエッセンスを入れようが、がらっと根本が変わるものはないと思う。どうやっても私の絵になるので、思い切って変えてますけどね。このまま、いけるところまで描き続けたいと思ってます!
「ひうらさとるの漫画と温泉」
漫画家生活40周年記念原画展
期間:~2025年3月31日
場所:城崎文芸館
時間:9:00~17:00
定休日:水曜・年末年始 ※変更になる場合があります
入館料:大人500円
ひうらさとる
1966年 大阪府生まれ。1984年『あなたと朝まで』でデビュー。2004年に連載開始した『ホタルノヒカリ』が大ヒットし、ドラマや映画にと展開。最新作品は『西園寺さんは家事をしない』。
- 公式HPhttps://www.satoru-h.com/
- Instagramhttps://www.instagram.com/marikosatoru/
写真/橋口まさみ 取材・文/小栗真琴
※記事に掲載されている情報は12月24日(火)時点のものです。記事をご覧になったタイミングでは変更となっている可能性があります。最新情報をご確認の上お出かけください。